昭和44年3月27日夕
諺に「桜切る馬鹿、梅切らね馬鹿」があります。
桜切ってはいけない切ると切り口から腐ると云はれている。梅は切らないと来年は花もさかない,実も実らない。
桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿と申します。信心でもそういうことが云えると思う。ここは切らなければならんという所を切りきらん。
いろいろそのことでありますが、例えば病気なんかいたします。もう医者も手を離した、自分も難しい。本気で改まりますとか、自分の、例えば福岡の吉木先生が大変な状態であった時に自分の持ち物一切を金に換えられた、持っておられた預金も全部親教会の小倉教会とご本部へお供えされての願いであった。それから奇跡的に助けられたという話をよくいたしますが、これはきりよい、いよいよ助けて頂きたい欲得はなして神様に願う。きりよいですはね、
しかしおかげを受けてから喜ぶ、ない命を助けて頂いた思いも掛けないおかげを受けたと云う時に皆切きらん、たいへんこれでおかげ頂きましたと云ってもお神酒の二本か三本か・・・?してお礼に来るぐらいんのこと、いうならばまだ切らなければ次のおかげ、むしろこれはお徳でしょうね、そこは。起きられんおかげをうけた喜びがきるのですからこれは徳にならんはずがない。
そこんところを皆が疎かにする、おかげを受けた、何か・・・・?ちょこっと切ってそれをお供えしてお礼参拝すればそれで、しめいたように、後に信心が続ければそれでいいと思う、それはそれでいいです。
けいどもそういう時に徳をうけるという生き方がある、これは内々の者ばかり と思うたが公開すまいと思うたけれど、今晩の人だけは聞いていただこうと
先日からある教会の、こんど皆さんと一緒にご本部に参ります、今日まいりますその人がここに二回三回来たかね、三回目のお参りの時に、とにかく今まで信心らしい信心は知らなかったし、身に付けなかったし、なんちゅうですか何とはなしに割り切ったドライな感じの娘さんですけれどもここえ来たらもう理屈とかドライとかじゃなくて現に間の当たりにここにみんな修行しておられる姿に触れ、また生きた神様をみの前に見せていただくような・・・・?なもんですから、感激して来たら「一晩泊めてください」といって
:度々泊まって帰られました。今度も学院に行く前にお礼に出て来ましてね。
『こういう広大なおかげを受けて、こういう風におかげを受けているんですと一昨日と昨日お引き寄せいただきおかげを頂きありがとうございました。
昨日の帰りのバスの中でいろいろと考えさせられました。親先生の偉大さ神様が目の前に居らっしゃる。居らして手を差し伸べて下さってある不思議さ、皆様がたの真からのお祈り腰が痛くない事実、どれもこれも、あれがたくて頭がさがる思いでした。」たいへんな思い大変な病気で7年も苦しんでいた。「今までバスのバウンドするたびに、腰を空に浮かせて、腰に伝わる振動を避けなければならなかったのに、昨日のバスの中では快い運動として感じさせられて頂くことが出来、ありがたくて涙がでてきました。人前では恥ずかしいので上を見上げ
流れ出る涙を目に入れていましたがドンドンあふれ出ますので、ついにハンカチを取り出し一時間ほど涙を拭きっぱなしで帰らして頂きました。神様になにをお供えさしてもらったらよいか考えました。本当は私の身体をお供えしたかったのですが、まだ抵抗力も弱く健全でないので残念ながらお供えできません。
それで私の貯金全額を、と申しましてもほんの僅でおかげ頂いた万分の一の額かもしれませんこれを貯めるには私なりに努力さしていただき、00いただきました。お金なので真心こめて御礼としてのお供えさしてくださいませ。
お願いがあります、この貯金通帳と印鑑をお供えさして下さい。今後苦痛や弱気を出しすがってきた時、これを見せて下さいそれによって今の事を思い出し終章の修行の糧として生きたいのです。昨日家での夕食の時、恥ずかしい話ですが、魚の骨が喉にひっかかって御神米様を23日のお祭りのお直会の饅頭を頂いて帰りましたので、そのお饅頭を一口ずつ切って飲みこませていただき骨はそれと一緒にとれました。突き刺さった痕はツバを飲むのも痛みますが、とれてうれしく思います。神様に御礼お願いいたします。
実は魚の骨は3年程前に経験さして頂きました。その時は喉が腫れて・…?床に伏せ
医者に行き骨探しに一週間ぐらい傷が痛くて往生しました。
勿論私の食事のいただき方が悪かったからです。うっかり骨など気もせず口の中に入れてしまったので、今日のことが3年前の同じ状態だったら、学院入試も受けにいけなかったのですが、神様のなさる事は恐ろしいほどありがたく思います。入試の万事お繰り合わせお願いいたします。
あまりお願いばかりしていると、徳を借りるようになりますね。うちの親先生から教えて頂いたことが「大気に指先で立ってては信心ができない、足腹全部をシッカリ地に下ろし踏んばって信心してゆかねばならない」と有り難く受けさせていただきました。
先ず自分の足を大地につけ足を大地にくっけるために、この合楽から歩けるだけ歩いて帰ります。疲れを感じたらどこからでもバスに乗せてもらいます。どうもありがとうございます。 合掌 』
7年越しの病気が治ったんですからね、ありがたいのですから、中々できることでは有りません。自分が具合が悪いこれをずーと他の仕事が出来んのですから袋はりをしているんです。其れに5、60円しかなりません一生懸命しても2千円か二千五百円それを全部預
金にずーと入れてある。それを一万円だけ残してね、通帳と印鑑を持ってきた、 あとは全部引き出してお供えしとります。
私はある意味で驚きました、ここに三回しかお参りしてません。そしてここで生きた神様を感じられることがありがたくてならない。家に歩いて帰りたいというんです。「というんです。いろいろお届け出来ませんから手紙書いてきましたので読んで下さい」
神様、神様がお道の教師におとりくださろうか違うのであるかもしれませんけど、けれどもね、ここん処ですたい、おかげを頂いたのがだんだん薄れてまいりまして、「おかげ頂いたら千の灯篭もお供えしようごと云いよるけれども、おかげ頂いた暁には千の灯篭が一本の灯篭にもならんで」
それが人間なんだ。苦しいから何もかもお供えしてから」これもおかげを頂く手ではあるけれどもそれでお徳を受けるかもしれません。けいども・・・?のおかげを頂いて7年越しの病気がここで一晩泊っとる内におかげを受けたという事実が、そんなに嬉しかったけれども、なかなかそういう事になってこない。
酒2、3本持ってお礼に行った,大抵のおかげを頂いても、それぐらいの事でお礼参拝が終わる。信心してありがたかでその気であって? こういう時に切らなかったら「梅切らね馬鹿」ですね。おかげ頂いてありがたい時こそ、思い切って切って私はお供えしなければいけないと思う、これが徳にならない筈がない。
これが例えばこの人は取次者として志願しているのですから、人が助かる土台にもなる基にもなると思うです。
しかし、まあ自分は信心がなく親の信心を見習い聞き習いでもありましょうけれども
、ここへたった3っ日間かよって参ってきて広大なおかげを受けて今日は皆さんと一緒に学院に行った。
ですからね、おかげ頂くために一生懸命の切ることも、これはお互いいよいよの時には欲得を離さしていただいて神様に縋るということも大事ですけれども、おかげを受けた時、本当におかげと思うた時、思い切って切っとかにゃならん。
沢山の梅の花が咲いた、これを惜しいと思わずに、やっぱりすっぱり切ってしもうとかないと来年が咲きません、これはもう「徳」になる。
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」切らんでよか処をがっばっと切って捨てるような事をする、それが痛みの元になる。
そして「切らなければならん処にはそれこそ酒一升か2升ですませ」なんて、これはそういう意味でも手本ですよね。もちろんこのようなおかげを受けている、それこそ医者にでも掛かってから医者代を払うというのは昔からなんじゃろう、医者代をたくさん払っても、神様には、ちっこっとばっかり
お供えさしてもろうてそれで事足りた、そういう馬鹿らしい話はない、そういう時に思い切って切ってかにゃならん、それが『徳』になる。それがこの主の行き方ですね。そこが出来たことが素晴らしい、それは自分の全財産です。永い間かかってずーと2千円、2500円ずつずーと入れてある、それも通帳と印鑑をしかも一万円だけ残してある。それを引き出しに入れてお供えしてある。
そして自分がもし弱音を吐くようなお願いをいったならば、これをまた見せて激励してくれ」と書いてあります。こういう切り方が徳にならぬはずがない。
お互い本当に見習わなければいけんところ。なかなかこの御理解はいただけんでしょうが。・・・・?どんなおかげを頂いても、酒の2本を持ってお初穂の一万円も包んでくりゃこれで結構お礼が済んだと思うとる。これじゃ・・・・?きまらん、そういう時に本気で切る処を切ってお供えさしていただくというような信心にならんと、絶対胸を切ることになりましょう。胸に切ることになったらいかん。しかし実際は出来ないこと。
こういう事実があることを聞いてもらいたいとおもったのです。 どうぞ
広崎